近代スポーツの祭典といえばオリンピックです。
2020年には約60年ぶりに開催地に選ばれた東京オリンピックが控えていますが今から待ち遠しいですね!
突然ですが筆者はドラマや映画が大好きなのですが特に好きなジャンルがありまして、それは「ドキュメンタリー」です。
歴史的事件などの象徴的な出来事や時代に挑戦しながら生きてきたパイオニアに迫り、裏にあった過酷なストーリーなどにとてつもない魅力を感じて惹きつけられてしまいます。
「ドキュメンタリーの観点からオリンピックについて調べてみるとおもしろいのではないか?」
というわけ今回はそんなオリンピックのドキュメンタリーな内容について調べてみました。
するとオリンピックの栄光に届かなかった悲劇的な人物や出来事がオリンピックにも数多く存在していたのです。
そのなかでも筆者が気になった熱狂と感動の裏に隠された悲劇的事件を10件絞ってまとめてみました。
あなたはこれらの事件を知ってどのような想いを感じますか?
No.1 全世界が見守る中、鳩が燃える
「ノアの箱舟」という話をご存知だろうか?聖書に出てくるノアの箱舟で世界が大雨により大洪水にみまわれた後、陸地があるかを確認するためにノアは鳩を翔び立たせた。すると鳩はオリーブの枝を咥えてノアのもとに舞い戻ります。ノアは陸地があることを知り新天地に向かって舵を取ります。
このように鳩は世界的に見ても自由と平和の象徴として世界中に広く知れ渡っており、スポーツを通じて世界中の国々が交流するオリンピックでも鳩を解き放ちアスリートの勝利を故郷に伝える存在として神聖視されていました。
そんな鳩についての事件は1988年のソウルオリンピックにて起こりました。
ソウルオリンピックでは開会式のプログラムにて点火式のあとに鳩を解き放つはずが、点火式より先に鳩を解き放ってしまいます。そして開会式はついにメインイベントの聖火台点火式の時を迎えます。
ところが聖火ランナーから繋がれた聖火を聖火台に灯す際、聖火台には解き放たれた鳩が多数とまっていたのです。
逃げ遅れた鳩は聖火に包まれて焼かれるという惨劇を世界中がこの悲劇を目撃し、驚きと悲しみに包まれました。
この事件をきっかけに動物愛護団体の煽りを受けたことで、次回からのオリンピックでは点火式のあとに鳩が解き放たれるようになりました。
No.2 ドーピングのオーバードーズ事件の真相
ドーピング(薬物過剰摂取)は使用者の運動能力を高めるものの、オリンピックにおいてはメダルを剥奪されてしまうほどの違反行為です。それではオリンピックではドーピングはいつから行われていたのでしょうか?
なんと1968年のメキシコシティ夏季オリンピックに参加選手の薬物使用テストが行われるまではドーピングは横行していたのです。
1952年にはスピードスケートの選手がアンフェタミン(興奮作用と身体能力向上)を過剰投与していたりと問題になっていました。
そしてドーピングを厳しく取り締まることになる契機となる事件が1960年ローマオリンピックで起こります。
デンマークのサイクリストKnud・Jensen が競技中に転倒し死亡してしまいます。彼もドーピングを使用していたことでアンチ・ドーピング運動が加熱しました。
彼の尊い犠牲はあったもののその後のアスリートたちの未来はドーピングから守られるようになったのです。
ところがKnud・Jensen の死後彼の死因はドーピングではなかったと判明してしまいます!
確かにアンフェタミンの使用はあったものの死因は当時の摂氏37.7℃の猛暑から起こった日射病による熱中症とロードバイクからの転倒の頭蓋骨骨折と診断されました。
彼の死はドーピングを取り締まるためのプロパガンダに利用されてしまいました。
No.3 周囲の圧力に潰された男
オリンピックで表彰台に登ることは何事にも変えられない名誉だと思いますが、国を代表してオリンピックに出場する事ができればそれだけでも充分に誇らしい出来事だと胸を張って言えるでしょう。
しかし国の威信を賭けるということは選手に大きなプレッシャーを与えることになります。
1964年自国東京で開催されたオリンピックに参加する名誉を陸上自衛官の円谷幸吉は与ります。なんとオリンピック本番までにマラソンの経験はわずか3回のみ。初マラソンからオリンピックまでの期間も7ヶ月と戦後最短の記録です。期待も注目度も低かった円谷ですが良い意味で期待を裏切り見事に銅メダルを獲得しました。
メキシコシティ夏季オリンピックでの金メダルを目標に定め、期待を一身に背負う円谷でしたが、彼にプレッシャーと不運が襲いかかります。
自衛隊体育学校の新校長はスポーツ選手の育成のための特別待遇を見直し、オリンピックのほうが大切だからと円谷の婚約を破断させます。期待に答えようとオーバーワークを重ねてしまった円谷は持病の腰痛を悪化させてしまい、椎間板ヘルニアを発症してしまいました。
手術を行ったもののもはや全盛期の走りには遠く及ばなくなってしまった円谷は、メキシコシティ夏季オリンピックの開催される1968年1月に自衛隊体育学校の自室にて自猿を遂げてしまいました。
享年27歳。「幸吉は、すっかり疲れきってしまって走れません。」という遺書を残して。
No.4 燃え盛る聖火トーチ
人間は一つの物事に集中すると周囲が見えなくなり、音も消えて痛みも感じたりしなくなることがあります。1956年のメルボルンオリンピックでは聖火ランナーに火が飛び散る出来事が起こります。
聖火ランナーの最終走者を務めることになったRon Clarke は観客の見守る中で自分の右腕に火が飛び散ってしまいますが彼は気付かずにそのまま走り続けました。
彼が気づいたときにはグラウンドに火の粉の跡が焼き付き、自分の服は焼け、右腕は火傷を負っていました。
No.5 ポシンタン料理騒動
まずポシンタンという料理はいったい何なのか説明しなければなりません。
ポシンタンとは韓国の郷土料理です。韓国で食べられている料理なのですが・・・なんとこの料理には「犬」の肉が使われています。韓国では犬は疲労回復と滋養強壮作用のある食品として食べられてた伝統ある食品でした。
韓国の若者は食べることも少なくなっており需要は減ってきたようですが、現代でも食べられているようです。
1988年のソウルオリンピックでは世界各国からやってくる選手や観光客に対して配慮し、犬食文化批判をかわすためにポシンタンの食事を禁止しました。
ところが一部の韓国人が外国人の習慣や意見に配慮する必要はないと反発し、普段以上にポシンタンを食べ始めたのです。ポシンタンの取り締まりを躱すために「ヨンヤルタン」「サチョルタン」などと名称を変えてまで食べるというなんとも奇妙な出来事になりました。
No.6 史上最も愚かなマラソン
1904年セントルイスオリンピック。近代オリンピックの歴史の中でもこのオリンピックは一番有名といっても過言ではないでしょう。もちろん悪い意味で。
初めて北米で行われたオリンピックでしたが当時は日露戦争の緊張感もあったため世界情勢上ヨーロッパ諸国が参加を見送ったり、「人類学の日」と称してインディアンやアイヌなど少数民族を集めて運動会を行うなど奇妙な点が多い大会だった。
その中でも珍事中の珍事として語り継がれているのがこのセントルイスオリンピックのマラソン大会です。上記の通り参加国が少ないために参加者も少なく、マラソンをやったこともないギリシャ人や南アフリカの少数民族など残念なメンツで行われました。
更にマラソン当日は猛暑日だったためアスリートたちは嘔吐と胃痙攣で倒れ衰弱するというめちゃくちゃなマラソンになりました。
このマラソンで1位になったアメリカのフレッド・ローツは高温と体調不良で20キロ地点で倒れてしまい、たまたま通りかかった自動車に乗せてもらい競技場に向かう最中に自動車がエンストしてから再び競技場に走り出しそのまま優勝するというとんでもない不正が行われました!
もちろん不正が発覚して金メダルは剥奪。2位のトーマス・ヒックスが繰り上げで優勝しましたが彼はストリキニーネ(興奮剤)入りウィスキーを飲んで走っていました。これはドーピング行為ですが当時はまだドーピングが取り締まっていなかったため今でも公式の優勝者として記録されています。
以上のことから歴代オリンピック最大の汚点とも言われるのも無理はないといえるでしょう。
No.7 不慮の事故
オリンピック競技は種類によって差があるもののどれも危険が伴います。
アスリートにとって事故や怪我は切っても切り離せない問題であり、不幸な出来事が舞い降りることは珍しいことではありません。
死に至ることもまれにありますがオリンピックでは練習中に命を落とし、表舞台に立つこと無く人生を終える選手も存在します。
2000年、シドニー南西部で練習中に車に轢かれ死亡した22歳のナイジェリア人ランナー、Hyginus Anugoはそのうちの一人かもしれません。
交通事故のような日常生活で起こりうる事故であっけなく終わってしまう選手もいます。
スピードを競う競技は特に危険を伴います。特に氷上をそりに寝そべって乗り最高時速120キロメートルで走るリュージュでも悲しい事件が起こりました。
Hyginus Anugo1964年、オーストリアの冬季インスブルックオリンピックの際、英国のリュージュ選手、Kazimierz Kay-Skrzypeckiがトレーニングラン中に衝突死。2010年冬季バンクーバーオリンピックでは、オリンピック開幕まで数時間という時に、またもやリュージュ選手Nodar Kumaritashviliが練習中にスチールポールに衝突して亡くなっています。
練習だけではありません。競技本番中に命を落とすこともあります。
1912年のストックホルム夏季オリンピックではマラソン当日に30℃超えの猛暑に襲われたことにより出場選手68名のうちゴールできたのはわずか34名。残りの選手は熱中症や脱水症状や体調不良を訴え棄権してしまいました。ポルトガルのFrancisco Lazaroも競技中に脱水症状が原因で倒れ、翌日亡くなってしまいました。
オリンピックで輝かしい成績を残すために全力を尽くした選手の無念を思うと胸が痛みます。
No.8 ソウルオリンピックに反対する北朝鮮
朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)と大韓民国(以下、韓国)の2国は現代でも緊張感の高い国際関係がアジアで話題になりますがそれは何も最近の話ではありません。
1950年に勃発した朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれたものの終戦宣言は行われておらず、未だに休戦状態です。
1988年のソウルオリンピックでは社会主義国の参加を促すために韓国と北朝鮮による共同開催が企画されたが交渉は難航し韓国での開催となりました。
しかしソウルオリンピックが決定された後、北朝鮮は韓国のソウルオリンピックを妨害するために行動を起こします。
1987年11月28日にバグダット発ソウル行きの大韓航空旅客機がアンダマン上空で爆破されるという大韓航空機爆破事件が起こり、北朝鮮のテロ行為と判明したことで韓国と北朝鮮の緊張が高まりました。
実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)の2名。金正日のソウルオリンピック開催を妨害するための命令により日本人旅行者になりすましてテロを実行。韓国はテロを行った北朝鮮を非難したものの北朝鮮は関与を否定し続けました。
北朝鮮が狙った韓国の信頼低下のために115名の死者が出た恐ろしい事件でしたが、翌年ソウルオリンピックは無事に開催されました。
No.9 サッカー史上最悪の乱闘事件
サッカーは世界中で最も人気の高いスポーツですが、同時に暴動も起きやすいスポーツでもあります。サッカーのサポーターが試合結果や内容によって暴力行為や破壊行為を行うことは珍しくなく、「フーリガン」と固有名詞で呼称されるほどです。
そんなサッカーの暴動の中でも最大級の暴動が東京オリンピックの予選で起こりました。
1964年5月24日に東京オリンピック南米予選のペルー代表VSアルゼンチン代表戦で最悪のスタジアム群集事故が起きました。この事故により328人が死亡、500人以上が負傷したことから、サッカー史上最悪の惨事とも言われています。
85分にアルゼンチン代表のアンドレス・ベルトロッティのオウンゴールにより、ペルー代表が1-1の同点に追いついたかに思われましたが、パソス主審はこの得点を無効と判定。納得の行かなかった観客の一人の男がスタンドから飛び降りてピッチに侵入、警備を担当した警官が取り押さえそれからはあっという間に警察と群衆の間で悪質な戦闘に発展しました。
警察は暴動を鎮めるために催涙ガスを使用。観客53,000人は閉鎖された出入り口に押し寄せパニックを引き起こし窒息死しました。興奮冷めやらぬ暴徒はスタジアムを脱出後に自動車の破壊や商店の攻撃を始めたため警察も発泡、騒動は泥沼と化しました。
これはこれは現場であるペルーの首都リマの国営スタジアムの名前から「エスタディオ・ナシオナル」の悲劇と呼ばれるようになりました。
No.10 20年間で156人に性的虐待を行った医師
オリンピックで金メダルを取ることを求められる選手は肉体的にも精神的にも大きなプレッシャーを抱えています。そんな女性体操選手につけ込んだ悪質なアメリカ体操医がアメリカだけでなく世界に衝撃を与えました。
元米国体操連盟のチームドクターだったラリー・ナサールは150人以上のアスリートを目指す女児や若い女性に対し性的虐待を20年もの長きに渡って行ってきました。
信用されている医者として有名だった立場のためオリンピックに出場するために被害者は我慢し続けていました。
治療と称し逆らうことのできない女性に不適切な行為を行いパワハラとセクハラを同時に行ってきた悪魔のような男です!
被害女性たちの勇気ある告発もありましたが、米国体操競技会、ミシガン州立大学、米国オリンピック委員会などによって、何年も無視されていたことが明らかになり更に問題となりました。
実刑判決懲役40年から175年を言い渡されたラリー・ナサールですが弁護団は被害女性たちは嘘をついており、マスコミも印象操作をしているとして別の裁判官での最新を要求しています。ここまで恥ずかしい大人はそうはいないでしょう。