インターセクシャルとは?インターセクシャルの悲劇的なアスリート10選

インターセックス

インターセクシャル両性具有者や半陰陽者とも呼ばれる存在で男性と女性両方の性質を有しており性別の判別も難しく、半陰陽者自身も自身が何者であるのかを悩む場合もあります。

現代においても討論する際にはデリケートに扱う必要がある言葉です。

そんな討論の内容にはスポーツ界も大きく関わってきます。

インターセクシャルアスリートが女性として競技を行う場合、圧倒的なまでのフィジカル差や筋肉量の差によって競技バランスが崩壊し不公平な結果が生まれてしまうのです。

これまでいくつものインターセクシャルアスリートがスポーツ競技で讃えられるべき結果を残しながら、後々インターセクシャルという特異性が発覚した後に「卑怯なイカサマ」「奇人」と世間から揶揄され、その努力を嘲笑われてきました。

プライバシーや人権を蔑ろにされてきた悲しきインターセクシャルアスリートの歴史があります。

この記事では10人のアスリートの人生を紐解いていきましょう。

No.1:Pinki Pramanik/ピンキ・プラマニック

インド人女性トラックランナーであるピンキ・プラマニック。

彼女のアスリートとしてのキャリアは心無いいくつかの嫌がらせや銃を向けられる脅しと困難極まりないものだったが決して屈すること無く努力と研鑽を続けました。

2006年のコモンウェルスゲームで女子400メートル走チームの一員として銀メダルを獲得。

さらに同じ年にドーハ・アジア大会で女子1600メートルリレーに出場し見事金メダルを獲得しました。

ところが2012年にピンキは女性をレイプした疑いで警察に逮捕。同時にピンキは男性であるという噂が広まるという事件が起こります。

ピンキは男性刑務所に26日間拘束され、彼女の同意なしに手足を縛り薬のを投与し徹底した身体の再検査が行われました。

高度な染色体パターン検査によってピンキは男性擬似ヘルムフロダイト(両性具有者)であることが判明しました。

とはいえ専門家はピンキには発達の遅い陰茎と内部精巣があり、性行為の障害があることによりレイプすることは不可能だと主張しましたが、警察はピンキが勃起することができるため、依然として有罪であると主張しました。

「私は自宅に閉じこもっています。外出したり、人と顔を合わせたくありません。」

最終的にピンキは無罪を言い渡されましたが、検査の際に撮られたピンキの全裸写真もネットに流出しなど彼女の尊厳は踏みにじられることになりました。

No.2:Caster Semenya/キャスター・セメンヤ

「こういう人間は私たちと一緒に走るべきではない。私には女じゃなくて、男に見える」

イタリアのエリサ・クスマ選手はそう話しました。

南アフリカのキャスター・セメンヤは2009年に陸上界に彗星の如く現れ世界的に注目を集める10代のアスリートでした。

女子800メートル走の1分55.45秒という素晴らしいタイムの走りで金メダルを獲得し、将来を有望視されましたが、セメンヤは正常な女性よりも5倍もテストステロンを有していました。

テストステロンは男性ホルモンでありこの事実にセメンヤは一転して世間からバッシングを受けることになります。

その後行われた検査でセメンヤには子宮や卵巣がなく、逆に内部精巣を持っているという衝撃の事実が公表されました。

セメンヤは半陰陽者と診断されたことにより国際陸上競技連盟(IAAF)はセメンヤが今後競技試合に出場することを禁止し金メダルを取り消すことを検討される事態になりましたが、南アフリカ政府がセメンヤ選手を擁護し懸命に支えました。

セメンヤは陸上選手として競技復帰に成功し、その後もオリンピックや世界選手権で活躍することができました。

「存在の最も私的でプライベートな細部について、正当な根拠がない、執拗な詮索にさらされてきました」

「アスリートとしての権利だけでなく、尊厳とプライバシーも含めた基本的人権の侵害です」

家族がいなかったら、私は生きていることができなかったと思います」

「私は世界チャンピオンになりましたが、決してそれを祝うことはできませんでした。狼狽し、屈辱を感じています。私はただ私になりたいんです。私はこのように生まれ、何の変化も望んでいません」

インタビューに回答したセメンヤの言葉を読むと彼女は半陰陽者である前に、不幸な出来事の苦しみに戸惑うただ一人の少女に過ぎないということを実感します。

No.3:Ewa Klobkowska/エワ・クロブコフスカ

1964年東京オリンピックにおいて陸上女子4×100メートルリレーのポーランド代表の一人だったエワ・クロブコフスカ。

高い身体能力でチームに貢献し、優勝候補のアメリカを破って金メダルを獲得するなど誇らしい実績を持っていました。

翌年には100メートル11秒1の世界記録を樹立したものの、世間は「ドーピングではないのか?」「実は男性ではないのか?」と疑惑の目を向けます。

1967年に当時最先端技術の染色体検査でテストステロンの数値の高さから女性ではないと診断され失格することになりました。

彼女の輝かしい功績である金メダルは剥奪されることはありませんでしたが、女性として競技に参加することができなくなりました。

「私は自分が誰かわかっている」

様々な疑惑の目を向けられたエワですが、1968年には男児を出産しています。

No.4:Stella Walsh/ステラ・ウォルシュ

ステラ・ウォルシュは最も数奇な人生を歩んだインターセクシャルアスリートといえるでしょう。

1911年にポーランドで生まれたステラは後に家族でアメリカに移住し陸上競技で才能を開花させていきます。

1932年のオリンピックに参加できないアメリカに代わってポーランド代表として参加し、女子100メートル走で見事に金メダルを獲得。

世界的な陸上ランナーであることを証明したことでステラはアメリカ市民権を獲得します。

1947年に結婚し1951年40歳までの間に多くの大会に参加し数々の実績を残してきたステラはなんと1980年に駐車場で強盗に襲われてこの世を去りました。

物議を醸したのは死後の司法解剖で、ステラは体内に睾丸を持っているインターセクシャルだったことが判明するという事実が判明されたからです。

ステラの陸上記録を抹消するか否かという議論を巻き起こしたが、死後の彼女の記録は尊重され現在も残っています。

No.5:Maria Patino/マリア・パティノ

ハードル走のスペイン代表であったマリア・パティノは1980年代初頭に活躍していましたが、1985年の神戸ユニバーシアード大会前の検査にて染色体検査を行い、マリアはY染色体を持つ男性と診断されました。

マリアは体内に子宮と卵巣がなく、精巣を持っていましたがアンドロゲン不応症というテストステロンを体内で有効に使用することができない身体だったためにほとんど女性と変わらない身体でした。自分が女性ではなく男性であるという検査結果を受け取るまでマリアは気づかなかったのです。

のちに語ったインタビューでマリアはこのように振り返っています。

「私自身は自分が女性であると知っていたし、私が遺伝的に違うことによって、不当に身体的なアドバンテージはないことも分かっていた。私は男のふりなんかできなかった。私には胸があるし、膣がある。偽りはない」

1988年ソウルオリンピックに出場する権利を失ったマリアでしたが彼女は諦めませんでした。

国王に直訴し、著名な遺伝子学者たちの支援を受けてルール規定について弁論で立ち向かい、1992年のバルセロナオリンピックの参加権を賭けた大会に参加する権利を勝ち取ります。

しかしマリアは陸上競技から3年も離れており彼女の選手としてのピークはとうに過ぎていました。10分の1秒の差で五輪の夢は絶たれることに。

彼女の不屈の精神は尊敬に値しますが、失われた3年の代償はあまりに大きすぎました。

No.6:Santhi Soundarajan/サンティ・ソウンダラジャン

カースト制度が今も根強く残るインドで最下層出身であったサンティ・ソウンダラジャンはアスリートとしての才能を開花させつつあり、家族とともに豊かな生活を送る未来が待っていました。

2006年に行われたアジア競技大会で銀メダルを獲得した翌日インドのアスレチック連盟による血液検査でサンティはアンドロゲン不応症であることが発覚し、インドオリンピック連盟から競技への参加を禁止されるまでは。

同じくアンドロゲン不応症だったが抗議して真っ向から立ち向かったマリア・パティノと違いサンティは抗議しませんでした。

今まで当たり前に女性として生きていた自分が女性ではないという事実を突きつけられたサンティは周囲の人間から奇異の目で見られることによってうつ病を患い、自殺を図ります。

「誰もが私を見下していた」とサンティはESPNとのインタビューで語りました。「皆の目がこう言っていました:実は男?女装趣味なの?と。そのことにとても傷ついています。私の人生と、さらには私の家族の人生をも台無しにしました。」

サンティは常に自分を女性だと感じていましたが、最終的には髪を短く切り、男性の服を着て生活することによって、不快な注目や噂を避けたのです。なんとも胸が痛みます。

現在ではインドの恵まれない子どもたちに陸上のしながら家族と生活しています。

No.7:Erika Schinegger/エリカ・シネッガー

エリカ・シネッガーは女性として人生を過ごしてきましたが、自身の性について倒錯し大いに悩んだ時期があったようです。

しかし1966年にスキーダウンヒルで金メダルを取得後に性検査を受けるまで自分がインターセクシャルで自身の内部に陰茎と睾丸が成長していることに気づきませんでした。

エリカはこの際医師の面前で全裸で身体を調べられる検査で屈辱的な経験をうけます。

多くの女子選手がこの検査に抗議の声を上げることになり、染色体検査が主流になるきっかけになりました。

その後外科手術を受けて性別を男性にしエリックと改名しました。

現在はオーストリアの故郷でホテルとスキースクールを経営し結婚して子供もいます。

No.8:Dora Ratjen/ドラ・ラチエン

誕生に立ち会った助産婦は、最初に「男の子です」と言ったが、しばらく熟考した末に前言を翻して「女の子です」と告げました。

ドラ・ラチエンはドイツで誕生したが両親に女性として育てられました。

両親もドラのインターセクシャルに気づいていており、父親が医者に相談した際に「治療はできない。成り行きに任せましょう。私たちが出来ることは何もありませんから。」と言われただけでした。

スポーツに才能を発揮し1938年ウィーンで開催されたヨーロッパ陸上選手権で、走り高跳び当時の世界新記録1m70cmを記録しドイツに金メダルをもたらしますが、列車で故郷に戻る際マクデブルクのプラットホームで車掌が「女装した男が列車に乗車している」と通報しラチエンは警官に尋問を受けます。

ラチエンは自分が女性であることの証明書類を提示しましたがしばらく躊躇した後、自ら男性であることを認めて詐欺容疑で逮捕されました。自身を男性と認識していたのです。

内科医による検査の結果、ラチエンの性別は明白に男性であると宣告しましたが、彼の生殖器の状態では性的交渉は不可能だと所見を述べています。

ラチエンも思春期に乳房の発達もなく、代わりに射精を経験しており、1日おきに足の毛を剃るなどインターセクシャルに悩み孤独に生きてきました。

金メダルも剥奪されたラチエンですが、なんとナチスドイツ当局の強制により女装して陸上大会に参加させられていた被害者と判明しました。

1939年にラチエンは正式に「ドラ・ラチエン」から「ハインリッヒ・ラチエン」と改名し性別も男性に改めました。ラチエンは故郷のブレーメンに戻り、父の経営していた飲食店を継ぎましたが、マスコミの取材を一切受けず、過去についての問いに答えることもありませんでした。   

No.9:Zdeněk Koubek/ズデニェク・コウベク

チェコスロバキアの陸上選手だったズデニェク・コウベクは1934年の女子世界大会で2つのメダルを獲得し、100〜800 mのランニング、ロングジャンプ、ハイジャンプでいくつかの国内タイトルを獲得し、ランニングイベントでいくつかの世界記録を樹立しました。

ところが陸上競技が女性の身体に及ぼす影響という、科学的研究の一部である健康診断を拒否したことによりコウベクに対して「男性なのではないか」と噂がつきまとうようになります。

後にコウベックは男性擬似ヘルムフロダイト(両性具有者)だったことが明らかになり翌年1935年にコウベクは陸上競技会から引退。さらに1936年には性転換手術を受けて男性になりました。

陸上競技のコーチになるキャリアも捨て、兵役に就かなくてはならなくなる可能性もあったにもかかわらず男性としての自身を受け入れ、結婚してプラハで妻と暮らしました。

No.10:Edinanci Silva/エディナンシ・シルバ

エディナンシ・シルバはブラジル出身の柔道家であり1996年から2008年までオリンピックに4回出場しました。

両性具有でこの世に生を受けたシルバは女性として競技に参加するために手術を行ったことで女性と認められ、国際オリンピック連盟にブラジル代表になる承認を得ることができました。

オーストラリアのライバル、ナタリー・ジェンキンスが記者会見の場でシルバを「彼」と繰り返し呼ぶことでシルバは意図せず世界から不快な注目を浴びることになります。そこでシルバは、オリンピック委員会に女性であることの証明を提出しました。シルバは試合でジェンキンスを打ち負かしましたが、オリンピックのメダル獲得に失敗しました。

数々の大会や世界選手権で実力を発揮し好成績を収めているもののオリンピックでは結果を残せず、メダル獲得の夢は叶いませんでした。

まとめ

これらの歴史はフィクションではありません。インターセクシャルは周囲の人間はおろか他ならぬ自分自身も気づかず、アイデンティティを崩壊させ、人権を侵害しかねない難しい問題です。

私達にできることはこういった悩み、苦しみを持つ人に対して理解して認知することや共に寄り添い支え合うことではないでしょうか。

アスリートもオーディエンスもスポーツを通してともに感動と興奮を味わうことができる素敵な未来を子どもたちや次の世代に繋いでいけるように、ひとりひとりが考えるきっかけになることを願います。